ロンドン 日本人女性への差別的発言 クワイ川をめぐって
ロンドン 日本人女性への差別的発言 クワイ川をめぐって
イギリス人が因縁をつけ始めます。
場所はロンドンの地下鉄の中です。
このイギリス人(カメラに写っている)の叔父がクワイ川で殺されたこと、そして彼のいとこのうち2人が拷問され殺されたことを女性に伝えます。
このイギリス人は
「日本人はむかつく(不快だ)」
と言います。
日本人女性は
「あなたのほうがむかつく(不快だ)」
と言い返します。
イギリス人
「お前らは、第二次世界大戦で負けた。謝れ」
「お前は謝らない」
「うせろ」
「列車から降りろ」
ベーカールー線の地下鉄がクイーンズパーク駅に着くと、女性は降ります。
カメラに写っていない付近の男性が途中から割って入ります。
イギリス人
「お前はどこから来た」
付近の男性
「それは重要なことなのですか(どうでもいいんじゃない)」
付近の男性
「彼女はあなたの親戚を殺しましたか」
付近の男性
「彼女があなたに何かしましたか」
付近の男性
「なぜ彼女があなたに謝らなければならないのですか」
イギリス人
「お前は、何を知っているんだ」
イギリス人
「お前は歴史について何を知っているんだ」
と言います。
付近の男性は
「私は多くを知っているわけではない」
と言います。
イギリス人
「何も知らないなら、ぺちゃくちゃ喋るな、黙ってろ」
付近の男性は
「あなたが黙りなさい」
と繰り返します。
この映像は、その後、インターネットで広まりました。
このイギリス人Keith Hurdleは、その後、2罪が加重された公の秩序(社会秩序)違反の罪で12週間投獄されたそうです。
彼は、元パラシュート部隊の隊員で、北アイルランドとフォークランドで軍務についたことがあるそうです。
このイギリス人の叔父が亡くなったクワイ川とはどのような川でしょうか。
タイ王国西部の川クワイ川には有名なクワイ川鉄橋が架かっています。
クワイ川鉄橋は、第二次世界大戦中、日本軍が秦緬(たいめん)鉄道建設工事の一環で架けた鉄橋です。
以下、クワイ川鉄橋と秦緬(たいめん)鉄道を中心に話を進めます。
第二次世界大戦中に日本軍によって泰緬(たいめん)鉄道が敷設された際、タイのカンチャナブリーでメークローン川に架かる鉄橋=クワイ川鉄橋が建設されました。
その経緯を描いた1957年の映画「戦場にかける橋」(The Bridge on The River KWAI ) で橋が架かっている川がクワイ川であるとの認識(つまり誤った認識)が広まりました。
そのため、1960年頃、架橋地点を含む、合流地点から上流部分を「クワイ・ヤイ」(大クワイ川)と改称し、合流するクワイ川を「クワイ・ノーイ」(小クワイ川)としました。
クワイ川鉄橋は「クワイ・ヤイ」(大クワイ川)に架かっている橋です。
クワイ・ノイ川(小クワイ川)は、クワイ川鉄橋より下流で合流し、合流地点から下流はメークローン川と呼ばれています。
メークローン川はタイランド湾に注ぎます。
クワイ川鉄橋は、第二次世界大戦中、日本軍が軍需物資の輸送を目的にマレー半島を横断する秦緬(たいめん)鉄道建設工事の一環で架けた鉄橋です。
泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、第二次世界大戦中に日本軍がビルマ・インド侵攻作戦のために建設したタイとビルマ(ミャンマー)を結んだ鉄道です。
延長約415kmの鉄道新設工事は、路線のほとんどがジャングルで、多雨地帯でした。
工事は1942年6月から1943年10月にかけて行われました。
日本陸軍によって建設・運行されましたが、戦後連合国軍によって部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れています。
日本軍の名称は泰緬(たいめん)連接鉄道。
英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」ですが、多くの死者を出した過酷な建設労働から英語圏では「死の鉄道(Death Railway)」の名で知られています。
現存している部分は、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されています。
この支線は、風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」や「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多く、観光客に人気の路線です。
この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討していましたが、地形が複雑で建設を断念しました。
戦時中の1942年、日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するため鉄道建設を開始しました。
背景として、当時のビルマとタイの間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートが少なく、その海上輸送路もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になり、別に陸上輸送路が求められたのです。
泰緬(たいめん)鉄道建設は迅速さを要求されたためビルマ側・タイ側両方から開始されました。
人数について諸説ありますが、泰緬鉄道(たいめんてつどう)建設の作業員は日本軍1万2000人、
連合国の捕虜で建設に従事した作業員は6万2000人でした。
(うちイギリス人6904人死亡、
オーストラリア人2802人死亡、
オランダ人2782人死亡、
アメリカ人133人死亡、
合計1万2621人が死亡)、
募集や徴用による労務者 の タイ人数万(正確な数は不明)、
ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、
マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、
インドネシア人(華僑含む)4万5000人が使役されました。
泰緬(たいめん)鉄道建設現場の環境は劣悪でいわゆるタコ部屋労働でした。
それは、日本軍の作業員も同様でした。
工事の後半の1943年には翌年のインパール作戦に向けての準備に加え、敵潜水艦の攻撃により海上輸送が困難になったため雨季の中さらなる迅速さが要求されました。
食料不足からくる栄養失調、雨季が続く中での衛生状態の悪化によりコレラやマラリアにかかって多くの死者が出ました。
犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いがありますが、総数の約半分と言われています。
特に、巨大な一枚岩を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パスと呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿うように木橋を建設したアルヒル桟道橋などでは、多くの死者を出しました。
戦時中、完成後の橋は連合軍の爆撃機により空爆が行われ、橋は破壊されては復旧されることを繰り返し、代用木橋なども作られました。
けれども、連合軍は鉄道輸送を完全に止めさせることはできませんでした。
捕虜収容所は橋から近かったため、連合軍の爆撃で外れた爆弾がたびたび落ちてきて、多数の死者が出ました。
その後、必要性の低さ(英国はこの鉄道をシンガポール港の重要性を下げる要因になると考えました)、維持費の高さなどから、ミャンマー側の全線とタイ側の国境から3分の2にあたる区間が廃止となりました。
また、タイ側の一部はダムに沈んでいます。
戦後、泰緬(たいめん)鉄道建設を担った鉄道連隊に所属する兵士や連合軍捕虜を取り扱った俘虜収容所の関係者らが、BC級戦犯として「捕虜虐待」などの戦争犯罪に問われ、有罪となりました。(戦争犯罪、戦犯については、いろいろな問題のあることなので稿を改めて述べたいと思います)
また捕虜の輸送には赤十字の標識がされていない輸送船(いわゆるヘルシップ)が使用されたため、連合国軍の潜水艦の襲撃により多くの死者が出ました。
現在建設の中心部となったカーンチャナブリー市内には連合国捕虜の共同墓地や戦争記念館が建設されています。