ヴェノナ文書とハリー・ホワイト
ヴェノナ文書
ヴェノナ(ベノナ)とは、1943年からアメリカ陸軍によって始められたソ連の暗号傍受・解読作業につけられた作戦名です。
ヴェノナ(ベノナ)作戦とも言われています。
ヴェノナ(ベノナ)作戦は1980年にアメリカの諜報活動として続けていく価値がないと判断され、作戦が中止されました。
ヴェノナ(ベノナ)作戦中止の理由は内容が過去の歴史となっていたからです。
「アメリカの学者は、かつて米国内にいたソ連スパイがモスクワに発信した通信文をロシア政府の公開文書としてモスクワのプーシキンスカヤ通りの公文書館で見ることができる」
「モスクワに発信された通信文の解読文書がアメリカにあるのに非公開でアメリカ人が見ることができないのは理解しがたい話である」
「現在、冷戦は終わり、解読文も40年以上前のもの、アメリカ政府がそれをいまだに秘密にしているのは理に適わない」
等の主張もありました。
当時、ソ連は第二次世界大戦前後の時期に米国内のスパイたちとモスクワの諜報本部との間で秘密通信をやりとりしていました。
アメリカ側はそれらを秘密裡に傍受し解読していました。
効率的な通信よりも機密の保全を重視し、「1回かぎりのワンタイム乱数表」を使用していたソ連の暗号は解読不能と考えられていました。
アメリカ政府は傍受解読作戦によって解読したソ連のスパイによる暗号通信記録を長い間、メリーランド州の米軍施設「フォート・ミード」の中の厳重に隠された文書庫に半世紀近くの間、保管していました。
ハリー・デクスター・ホワイト
ブレトン・ウッズ協定でのハリー・ホワイト(左側)。右側はケインズ。
1934年に財務省に入ったハリー・デクスター・ホワイトは順調に出世を重ね、1938年に通貨調査部長、1941年には財務長官の補佐官になりました。
1945年には財務省のナンバー2である財務次官補になりました。
第二次世界大戦後の国際通貨政策のあり方を作ったブレトン・ウッズ協定及び国際通貨基金 (IMF) の発足にあたって、イギリスのケインズ案とアメリカのホワイト案が英米両国の間で討議されました。
国際通貨基金 (IMF)はホワイト案に近いものとなり、以後世界ではドルが基軸通貨となりました。
その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めました。
1946年にトルーマン大統領はハリー・ホワイトを国際通貨基金(IMF)の米国代表理事に任命しました。
ユダヤ系の財務長官ヘンリー・モーゲンソーの日記からは1930代末から第二次世界大戦中に財務長官ヘンリー・モーゲンソーの考えに最も影響を与えたのはハリー・ホワイトであることがわかります。
解読されたKGB電文(ヴェノナ文書)によると
ハリー・ホワイトは、スターリンに敵対するポーランド亡命政府とアメリカとの間をソ連がどのくらい離間できるかについてソ連側に助言を与えました。
アメリカの政策決定者は世論の反対があったとしてもソ連によるラトビア、エストニア、リトアニアの併合を受け入れると断言しています。
1945年5月、国際連合設立のために開催されたサンフランシスコ会議で米国代表団上級アドバイザーを務めていたハリー・ホワイトは、会議で国連憲章について話し合いが行われている間、密かにソ連の諜報部門と接触し、
「トルーマン大統領とステティニアス国務長官は何が何でも会議を成功させたがっている。もしソ連が拒否権の獲得を強く主張すればアメリカはそれを認めるはずだ」
とソ連の諜報担当官に伝えました。
これ以外にもハリー・ホワイトは、いかにソ連がアメリカとイギリスを出し抜くかについて戦略的なアドバイスをソ連に与えました。
KGBの職員はソ連の外交官が知りたがっているアメリカの交渉戦略をさまざまな争点から問いかける質問票まで携えてハリー・ホワイトに会っていました。
それに対しハリー・ホワイトは詳しく答えていました。
1945年1月3日、ソ連はアメリカに対し、利率2.25パーセントで返済期間30年という寛大な条件で、総額60億ドルの借款を要請しました。
ソ連からの要請の1週間後、ハリー・ホワイトはヘンリー・モーゲンソー財務長官にソ連へ、もっと巨額の借款をより寛大な条件で行うことをルーズベルト大統領に求めるよう助言しました。
その内容は、総額100億ドルの借款を利率2パーセント、返済期間35年で提供するというものでした。
ソ連への借款に関する米政府内の議論はきわめて重要なものであり、慎重に秘密裡に行われていました。
しかし、1945年1月のいくつかのKGB電文では、ハリー・ホワイトが米政府内での議論の内容をソ連に流していたことが記されています。
ハリー・ホワイトが漏らした情報の中には、ホワイトやモーゲンソー財務長官の借款についての提案内容まで含まれていました。
最終的に、国務省の反対でソ連への借款は行われませんでしたが、もし借款についての提案が米ソ交渉で取り上げられていればソ連優位に交渉は進んでいたのではないでしょうか。
ハリー・ホワイトが共産主義勢力のためアメリカの政策に影響を与えようとしたその他の例として、アメリカの中国国民党政府への金借款があります。
アメリカ議会は1942年に中国国民党政府への5億ドルの金借款提供を承認しました。
1943年に中国国民党政府はこの5億円の金借款にプラス2億ドルの金借款の提供をアメリカに求めました。
戦時下の中国では通貨インフレが急速に進んで経済に大きなダメージを与えていました。
この金の供給は通貨を安定させ、危機的なレベルにまで来ていたインフレを抑えるためのものでした。
ルーズベルト大統領は金借款の提供を認め、1943年7月にモーゲンソー財務長官は中国への金の提供についての誓約書に署名しました。
しかし、ハリー・ホワイトは、フランク・コー(通貨調査部の部長)と、ソロモン・アドラー(中国に駐在する財務省代表)の協力を得て、中国国民党政府への金の提供に反対しました。
それはヘンリー・モーゲンソー財務長官の理解も得て金の提供の実行を遅らせることに繰り返し成功しました。
ハリー・ホワイトらの反対の理由は、中国国民党政府における汚職の蔓延と経済改革の失敗を改善しない限り、金借款は無意味であるというものでした。
結局、2年後の1945年7月までに中国へ送られた金は2900万ドルだけでした。
当時、年1000パーセントを超えるハイパーインフレーションによって中国経済は大打撃を受けていました。
1945年末に中国共産党との内戦が再開したとき、中国国民党政府はすでに非常に厳しい状況に追い込まれていました。
中国国民党政権内の汚職についてはハリー・ホワイト、フランク・コー、ソロモン・アドラーの認識は正しかったのです。
しかし、第二次大戦中、最も生産力のある地域を日本軍に占領されていた中国の状態を考慮せずに、中国政府による財政改革を求めるハリー・ホワイト、フランク・コー、ソロモン・アドラーらの主張は金借款反対の合理的根拠ではなく単なる口実でした。
ハリー・ホワイト、フランク・コー、ソロモン・アドラーらは代替案の提案を検討するふりをして効果的に金借款の実行を遅らせていたのです。
金借款の実行を遅らせることを支持していたモーゲンソー財務長官は、1945年中頃までに自分が間違った方向に導かれていたことに気が付きました。
ヘンリー・モーゲンソー財務長官はフランク・コーとハリー・ホワイトらに対し、彼らが自分を非常に不名誉な状況に陥れたことは弁解の余地がないと述べました。
しかし、モーゲンソー財務長官は、ハリー・ホワイトらは中国国民党政府への金借款問題に真摯に取り組んだ結果、対処を誤ったものとしか考えませんでした。
ハリー・ホワイト、フランク・コー、ソロモン・アドラーらの思惑がヘンリー・モーゲンソー財務長官のものとは本質的に異なっていることに気が付きませんでした。
ハルノート モーゲンソー私案
1941年、ハリー・ホワイトは財務長官の補佐官としてハル・ノートの草案作成に携わりました。
1941年11月11日に国務省極東部は対日協定案を作成し、コーデル・ハル国務長官に提出したが、これは具体性に欠けたものでした。
一方、11月17日にヘンリー・モーゲンソー財務長官が国務省の頭越しに、対日協定案を私案として直接大統領に提出しました(この私案は、ソ連のスパイである財務長官の補佐官ハリー・ホワイトが作成したものでした)。
モーゲンソー私案の題名は「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」
というものでした。
コーデル・ハル国務長官はヘンリー・モーゲンソー財務長官を不快に思いましたたが、モーゲンソー私案には良い点もあったので国務省案に取り入れられました。
ただし、ハリー・ホワイトが作成したのは原案に過ぎず、ハル・ノートを作成したのはあくまで国務省極東部でした。
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