刀伊の入寇(といのにゅうこう) 元寇、モンゴル襲来だけではない日本への侵攻

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 刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、1019年に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を中心にした海賊が壱岐(いき)・対馬を襲い、筑前に侵攻した事件です。

 

1019年、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃しました。

 

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は記録によると

 

殺害された人は365名、

拉致された人は1,289名、

牛馬の犠牲380匹、

家屋焼失45棟以上、有名な対馬銀鉱も焼損しました。

 

対馬で殺害された人は36人、拉致された人は346人でした。

 

壱岐(いき)では壱岐守(いきのかみ)藤原理忠(ふじわら の まさただ)も殺害され、149人が虐殺され、239人が拉致されました。

 

壱岐(いき)に残った人は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人でした。

 

筑前国怡土郡(ちくぜんのくにいとぐん)、志麻郡(しまぐん)、早良郡(さわらぐん)、能古島(のこのしま)では

 

殺害された人は180人、

拉致された人は704人でした。

 

これは、わかりやすく言うと奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものです。

 

被害は対馬・壱岐(いき)・北九州におよびました。

 

のちに賊の正体が刀伊(とい)(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」(といのにゅうこう)と呼ばれるようになります。

 

女真族は、このとき対馬の判官代(ほうがんだい)長嶺諸近(ながみね の もろちか)とその一族を捕虜にしました。

 

諸近(もろちか)は賊の隙をうかがい、脱出しました。

 

諸近(もろちか)は連れ去られた妻子をさがしに高麗に渡りました。

 

日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録が残っています。

 

長嶺諸近(ながみね の もろちか)が聞いたところでは、高麗は刀伊(とい)と戦い撃退したこと。

 

また日本人捕虜270人を救出したこと。

 

しかし長嶺諸近(ながみね の もろちか)の家族の多くは殺害されていたこと。

 

侵攻の主体は高麗ではなく刀伊(とい)であったことなどです。

 

刀伊の入寇(といのにゅうこう)の主力は女真族であったと考えられています。

 

女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族です。

 

刀伊の入寇(といのにゅうこう)を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられています。

 

1005年に高麗で初めて女真族による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになりました。

 

しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名はすべて高麗人でした。

 

そのため、権大納言 源俊賢(みなもと の としかた)は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張しました。

 

また「小右記」(おうき / しょうゆうき)<藤原実資(ふじわら の さねすけ)の日記>では海賊の中に新羅人が居たと述べられています。

 

1019年3月27日、刀伊(とい)は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、対馬の各地で殺人や放火を繰り返しました。

 

この時、国司の対馬守遠晴(姓は不明)は対馬からの脱出に成功し大宰府に逃れています。

賊徒は続いて、壱岐(いき)を襲撃。

 

老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らしました。

 

対馬や壱岐(いき)は外敵侵入の危険が高い国なので平安時代には武勇に秀でた者が国司に任命されることが多くありました。

 

賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守(いきのかみ)藤原理忠(ふじわら の まさただ)は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまいます。

 

藤原理忠(ふじわら の まさただ)の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとしました。

 

これに対し、嶋分寺側は、常覚(壱岐の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが応戦しました。

 

そして賊徒を3度まで撃退しますが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で壱岐を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かいました。

 

その後、寺に残った僧侶たちは全滅し嶋分寺は陥落しました。

 

この時、嶋分寺は全焼しました。

 

その後、刀伊(とい)勢は筑前国怡土郡(ちくぜんのくにいとぐん)、志麻郡(しまぐん)、早良郡(さわらぐん)を襲い、さらに博多を攻撃しようとしましたが、大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家(ふじわら の たかいえ)により撃退されました。

 

博多上陸に失敗した刀伊(とい)勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲いましたが、源知(みなもとのさとす または みなもとのしらす)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退しました。

 

藤原隆家(ふじわら の たかいえ)らに撃退された刀伊(とい)の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行いました。

 

「小右記」(おうき / しょうゆうき)には、長嶺諸近(ながみね の もろちか)と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女(くらのいわめ)と多治比阿古見(たじひのあこみ)が大宰府に提出した報告書の内容が記されています。

 

それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、丈夫な者を残し老人・弱者などを打ち殺し海に投じたそうです。

 

しかし刀伊(とい)の賊船一団は高麗の水軍に撃退されました。

 

このとき、拉致された日本人270人が高麗に保護され、日本に送還されました。

 

上述の虜囚内蔵石女(くらのいわめ)と多治比阿古見(たじひのあこみ)は、高麗軍が刀伊(とい)の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助されました。

 

金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国しました。

 

しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなりました。

 

当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、捕虜3人はみな高麗人でした。

 

彼らは「高麗を襲った刀伊(とい)に捕らえられていたのだ」と申し立てました。

 

しかし、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあり、大宰府や朝廷は半信半疑でした。

 

結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬の判官代(ほうがんだい)長嶺諸近(ながみね の もろちか)が帰国して事情を話し、9月に高麗から虜人送使(りょじんそうし)の鄭子良(ていしりょう)が保護した日本人270人を送り届けてきてからです。

 

藤原隆家(ふじわら の たかいえ)はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったといいます。

 

この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家(ふじわら の たかいえ)らが刀伊(とい)を撃退した後でした。

 

朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人(さきもり / ぼうじん)を復活して大規模に警護を固めた

 

813年の弘仁の新羅の賊(こうにんのしらぎのぞく)、

 

869年の貞観の入寇(じょうがんのにゅうこう)、

 

893年、894年の寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もありませんでした。

 

その上、刀伊の入寇(といのにゅうこう)を撃退した藤原隆家(ふじわら の たかいえ)が部下らに対する恩賞を懇請したにもかかわらず恩賞は与えられませんでした。

 

藤原行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)・藤原公任(ふじわら の きんとう)は、

 

「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った」

 

「故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張しました。

 

これは貴族たちが藤原隆家(ふじわら の たかいえ)は藤原道長(ふじわらの みちなが)の政敵であった藤原伊周(ふじわらの これちか)の弟であることから藤原道長(ふじわら の みちなが)に追従したためです。

 

また文官統治を維持する立場から各地の豪族や在庁官人が武装化し勢力を拡大しつつある現状に危機感を抱いていたことも背景にありました。

 

そのため、勅符(ちょくふ)なしでの軍事行動を許すと彼らが朝廷の命令を無視して独自の判断で軍事行動を起こすのではないかと考えた藤原行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)・藤原公任(ふじわら の きんとう)らの主張にも一理ありました。

 

しかし、藤原実資(ふじわら の さねすけ)が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされています。

 

また、引退していた藤原道長(ふじわら の みちなが)の意見によって恩賞が出されたともされています。

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