歴史修正主義と日本史教科書 大和朝廷 大和政権 ヤマト政権 大和王権 ヤマト王権
もともと歴史学における歴史修正主義は、新発見の史料や、歴史的事実とされているものの新解釈により、歴史を記述し直す歴史学における試みの一つでした。
歴史修正主義は伝統的な歴史解釈に対し、異なる可能性(仮説)や可読性(読み方)を示す試みのはずでした。
歴史修正主義または修正史観という言葉は、それ以前に主流であった歴史観を再検討した上で新たな歴史観を表す言葉でした。
祖国の歴史を肯定的に見つめ直すものだけの用語ではなく、また思想的に偏向した歴史観のみに用いられる用語でもありませんでした。
近年、こういったそもそもの歴史修正主義に対し、学術的な歴史修正を名乗っているが、客観的な歴史学の成果をわきに追いやり、都合の良い過去を誇張や捏造、都合の悪い過去は過小評価や抹消して、自らの主義主張に従うよう過去を修正するような意味合いの用法が生まれました。
従来、歴史修正主義とは歴史学において新たに歴史を検証する試みであり、否定的な意味合いは持っていませんでした。
ナチスによるホロコーストを否定する人々に対する批判やドイツにおける歴史論争などから、否定的な言葉として使われるようになったそうです。
新資料が発見され、それが偽物でなければ、歴史的事実とされていたものに新しい解釈、理解が生まれるのは当たり前のように思いますが、現状において歴史修正主義という言葉はよくない意味でとらえられています。
さて、最近の日本史の教科書についてのお話です。
ある時期の昭和の教科書には
天皇の祖先を中心とする大和朝廷は、伝説では九州の日向地方からきたというが、おそらくは大和平野の南部におこったものであろう。
この大和朝廷は、比較的短期間に、畿内を中心に東は中部地方から西は九州までを統一した。
統一の時期については、邪馬台国が大和にあったとするか、北九州にあったとするかによって異なってくるが、いずれにしても、朝鮮半島に進出する4世紀の中ごろには、日本の統一はおわっていた。
と記載されています。
そしてある時期の平成の教科書では
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
古墳はおそくとも4世紀の中ごろまでに東北地方中部にまで波及したが、これも東日本の広大な地域がヤマト政権にくみこまれたことを示している。
と記載されています。
昭和の大和朝廷という用語が平成にはヤマト政権になっています。
朝廷というのは天皇が政治を行う場所をさす言葉であるため、そのころにはそのような場があったか不明です。
天皇と呼ばれる存在を中心とした国家が成立していないかもしれないです。
そうであるなら、用語として大和朝廷は適切ではないとの理由によってヤマト政権になったようです。
天皇という称号はいつ頃から用いられたのでしょうか。
7世紀はじめの推古天皇に使われ、天武天皇のころに成立したという説があります。
そのため、4世紀から5世紀にかけての大王(おおきみ)を中心とした諸族政治連合体を表す用語として朝廷より政権のほうがふさわしいとなったそうです。
「ヤマト政権」は、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」という表記もあるそうです。
大和(ヤマト)をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されています。
8世紀後半に成立した「養老律令」に「大和」は初めて登場し、それは行政区画としての国名だから大和朝廷の大和はふさわしくないとされたそうです。
それより前は、倭(ヤマト)や大倭が使われています。
養老律令以後の行政区画としての「大和国」と4~5世紀の大和朝廷の政治権力の範囲とは異なっています。
そこでカタカナの「ヤマト政権」「ヤマト王権」という記載が現在の日本史教科書ではなされているそうです。
わかりやすく言うと、時代により、奈良盆地東南部の三輪山麓一帯を大和と呼んだり、古代の日本国家全体を大和や倭や大倭と呼んだりしたため、カタカナのヤマトにしたようです。
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