原爆 エノラ・ゲイ搭乗員 セオドア・ヴァン・カーク インタビュー

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広島へ原爆を落としたB29エノラ・ゲイ搭乗員 最後の生存者 セオドア・ヴァン・カーク インタビュー

 

セオドア・ヴァン・カーク

 

(Theodore Van Kirk 1921年2月27日 -2014年7月28日)

 

アメリカ合衆国の元軍人、広島市へ原子爆弾を落としたB29エノラ・ゲイ乗組員の最後の生存者でした。

 

ヴァン・カークは1941年に米陸軍航空隊の士官候補生となりました。

 

第2次世界大戦では、原爆投下訓練のため召集された第509混成部隊に加入しました。

 

入隊の時、部隊の上官からは、「くわしくは言えないが、成功すれば、戦争を終結させる、または期間が短縮されるようなことをやる」と聞かされていました。

 

1945年8月6日の夜明け前、ヴァン・カークは、他の11人の乗組員とともに、B29エノラ・ゲイ(B29の中で原爆投下用の改造=シルバープレート形態が施された15機の内の1機)でマリアナ諸島のテニアンを出発。

 

同機は、マンハッタン計画のもと秘密裡に製造された、原子爆弾「リトル・ボーイ」を搭載していた。

 

ヴァン・カークの任務(航法士)は、設定した標的の上空に機体を正確に導くことでした。

 

8月6日午前8時15分に、B29エノラ・ゲイは広島市上空に到着。

 

ヴァン・カークが標的を確認した数十秒後に原爆が落とされ、14万人が犠牲となる大惨事が、広島にもたらされました。

 

以下はRT(ロシア・トゥデイ)のインタビューです。

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

現在、B29エノラ・ゲイの12人の乗組員のうち1人だけが物語を伝えることができます。

 

今日は、セオドア・ヴァン・カークさんにお話を伺います。

 

それでは、運命の日の足取りについてお願いします。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

その日は重要な日ではありませんでした。

 

テニアン時間で8月6日午前9時15分、ヒロシマ時間で8月6日午前8時15分までに爆弾が投下されていたためです。

 

それまでに全部終わっていました。

 

しかし、その前日は重要な日でした。

 

当時、何が起こったのかを理解するためには時計の針を巻き戻さなくてはなりません。

 

原爆はマンハッタン計画によって開発されました。

 

マンハッタン計画には何十万人という人々が働いていました。

 

彼らは、テネシー州オーク・リッジ、ニューメキシコ州ロスアラモス、ワシントン州ハンフォードに3都市を建設しました。

 

そこでは、原爆の作り方、そのもととなる物質の作り方を研究しました。

 

アインシュタインは戦争が始まったときに原子爆弾を作ることが可能かもしれないとフランクリン・ルーズベルト大統領に手紙を書きました。

 

そのとき以来、ずっと原爆製造の努力は続いていました。

 

私たちは原子爆弾が完成する前、1944年秋に原子爆弾の投下準備を始めました。

 

あなたがもしポーカープレイヤーだったら、「あなたはチャンスに賭けている」と言うでしょう。

 

そういうことが起きていたのです。

 

1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで最初の原子爆弾のテストが行​​われました。

 

その後、すべてが活発になっていきました。

 

私たちは兵器を所持していることを知っていたので、準備をしなければなりませんでした。

 

私たちはすでに原爆を投下する準備をしていました。

 

その時までに原爆の投下方法が分からなければ決して原爆投下準備をしませんでした。

 

前日の午前中に作戦についての説明を受けて、8月6日午前2時45分に出撃するので戻って睡眠を取るように言われました。

 

すべては8月6日午前2時45分に始まりました。

 

眠るために戻りました。

 

誰も眠りませんでした。

 

最初の原爆を投下するように言われて眠れるわけありません。

 

夜8時に係りの者が来て、私たちを連れて行きました。

 

私たちは朝食を与えられました。

 

私はそれを最後の朝食と呼びました。

 

彼らはミッションの朝食と呼んでいました。

 

最後の作戦についての説明で最新の情報を伝えられました。

 

全ての海上救助艦の所在する場所等の知る必要があったすべてのことを伝えられました。

 

私たちはすべてをすまして最終的にB29エノラ・ゲイに乗って離陸しました。

 

とてもシンプルでした。

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

B29エノラ・ゲイに乗った時、気分はどうでしたか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

すべてが計画どおりに行われたので、いつも通りでした。

 

私たちが今回準備していたものと、期待していたもので驚くようなことは何もありませんでした。

 

200マイル離れたところから、または100マイル離れたところから、日本の沿岸を見ることができました。

 

広島から50キロ離れたところから広島を見ることができたので、爆撃準備に入り、原爆投下は爆撃手に任されました、他の者は座って原爆が投下されるのを待っていました。

 

原爆を投下したとき、突然、原爆の重量である4.5トンの重量を失い、原爆から離れようとしたため、飛行機が激しく持ち上がりました。

 

ポール・ティベッツ機長が(自動操縦に切り替えられていた操縦を)手動コントロールで引き継ぎました。

 

私たちが心配していた最大の事は、この原爆が爆発するかどうかということでした。

 

これは一度もテストされていなかったウラン235爆弾でした。

 

テストしたことがあるのはプルトニウム型の爆弾だったので、うまく爆発するかどうか心配でした。

 

原爆がB29エノラ・ゲイから投下されてから爆発するまでには45秒かかりました

 

誰もがそこに座って何らかの形で時間をはかっていました。

 

私は時計があったので、その時間が分かっていました。

 

他の人たちは、1000、1001などと数えていました。

 

原爆が投下されてから突然、明るい光が見えたので、爆発したことが分かりました。

 

そして、唯一の問題は原爆が飛行機にどう影響するのかということでした。

 

私たちはこの時点で原爆から離れていたので、私たちは原爆との間に距離を置いていました。

 

私たちは距離を保ちました。

 

非常に短い時間の後、私たちは最初の衝撃波を感じました。

 

それは約3.5Gと測定されました。

 

軍隊の人々は3Gを知っています。

 

それは戦闘機のパイロットには大きな衝撃ではありません。

 

しかし、高度30,000フィート(9,144メートル)のB29の乗組員にとってはとてつもない衝撃です。

 

私たちは、もう衝撃波が出ることがないか確かめた後、何が起こったのかを旋回して見ました。

 

広島の街は煙と埃で完全に覆われていました。

 

雲の下に甚大な被害があることがわかりましたが、それを見ることはできませんでした。

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

最初にニューメキシコ州の最初の原子爆弾をテストしたとき、あなたが言われたように、マンハッタン計画の原爆製造研究チームを主導したロバート・オッペンハイマーは、少数の人が泣いていた、ほとんどの人は無言であったと言っています。

 

原爆が爆発したとき、どう思いましたか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

私はうまくいって嬉しかったです。

 

それがそのときの偽らざる気持ちです。

 

ご存知のとおり、私たちは長い戦争を続けていました。

 

私たちは日本人に攻撃を受けました。

 

当時、日本人はいい人ではなかった。

 

私の隣人は戦争の捕虜だったが、私が話すことができるより多くの原爆、戦争の話を持っています。

 

私たちはバターンの死の行進をし、ソロモン諸島の戦いでは多くの死傷者を出しました。

 

当時のアメリカ政府の政策は、日本を抑圧することでした。

 

私はそれを助けるため何でもできることをしました。

 

アメリカ政府は日本を征服しようとしていました。

 

私もアメリカが日本を征服する手助けをしました。

 

ここで一言、言わせてください。

 

今日の日本人は、第二次世界大戦中に戦った日本人ではありません。

 

今日の日本人は素敵な人たちです。

 

私たちは、長年にわたり日本のホームステイの学生たちとカリフォルニアの自宅で一緒に暮らしてきました。

 

その日本人学生たちはそれ以上望めないくらい善良な人たちでした。

 

しかし、第二次世界大戦中の日本人は素晴らしい人ではありません。

 

私が言えるのはそれだけです。

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

広島と長崎の両方でこの破壊の後に日本人がアメリカ人を許すことができると思いますか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

許すかどうかはわかりません。

 

もし私があの時、広島や長崎に住んでいたのであれば、私もたぶん許さないでしょう。

 

なぜならば、人々はとてもひどく苦しんでいたからです。

 

彼らが受け入れるかどうかは別として、原子爆弾を落としたことは日本人の命と私たちの命を救いました。

 

日本に上陸侵攻しなければならなかったとすれば、日本人の死傷者はずっと、はるかに多かったでしょう。

 

アメリカ人の死傷者も多かったでしょう。

 

日本の本土上陸作戦のため作られた名誉戦死傷章がまだ残っていることを知っていますか。

 

当時、作られたパープルハート章=名誉戦死傷章はまだ配布されきれていません。

 

(第二次世界大戦中、アメリカ軍は日本本土決戦において生じる死傷者数を推定して50万個のパープルハート章=名誉戦死傷章を製造したが、日本のポツダム宣言受諾によって本土決戦はなくなり、量産されたパープルハート章=名誉戦死傷章は第二次大戦後長い間残っていた。2003年時点でも総数12万個程あり、底をついたのは2010年頃)

 

いい戦争ではなかった。

 

第二次世界大戦中に5000万の人々が殺され、死亡者はすべて語られるべき悪い話がある。

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

後から考えて、同じ目標を達成した他の選択肢、原爆の使用を避ける方法はあったと思いますか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

主要な選択肢は3つありました。

 

1つは、日本を封鎖し、人々を餓死させることでした。

 

すでに1000カロリーで暮らしている人々をどのように餓死させますか。

 

そんなことはできません。

 

他の2つの選択肢は、原子兵器を落とすか、日本に本格的な上陸侵攻をすることでした。

 

原子力兵器は、日本への上陸侵攻が行われた場合よりも全体的に死傷者が少なくなる可能性がある。

 

アメリカ軍の軍人や太平洋で戦った元兵士に尋ねると、彼らは原爆を選ぶでしょう。

 

私の隣人は、私が原子爆弾を落としたことを知ったとき、ここに来て、午前6時に私を起こし、

 

「私はあなたがしたことを聞いたよ、あなたは私の命を救ったんだよ」

 

と言いました。

 

「また、午前6時にうちのドアを叩くなら、私はあなたを助けないよ」

 

と言いました。

 

私が言えるのはそれだけでした。

 

しかし、当時の太平洋にいた皆さんは、私の人生を救ってくれたと言っています。

 

 リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

初の原爆を落としたその任務に後悔していますか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

私はこれまでの任務を残念に思っています。

 

私はヨーロッパやすべての戦場でのあのような任務について残念に思っています。

 

私はそこにたくさんの爆弾を落とし、おそらく幾人も民間人を殺しました。

 

しかし、私は原爆投下の任務を後悔しているか。

 

私たちがそれをしなければならなかったことは残念です。

 

先日、ここに仲間がきて、彼が何を言ったか。

 

「日本人はアメリカ人に原爆を落とさせたことを私たちに謝罪しなければならない」

 

それはこれまで私が聞いたことの新しい考えだった。

 

しかし、私たちはそれをやらなければならなかったことは残念ですが、人的損失を最小限に抑えて戦争を終わらせるためには、やらなければならなかったと思います。

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

核戦争の脅威がまだ残っており、核戦争の問題は今日でもたいへん懸念されています。

 

今日の核兵器を管理する政治家に何か言いたいことはありますか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

「すべての地域の政治家、外交官、権力者に言いたい、核兵器が使われているところを決して見たくない」

 

「しかし、核兵器が再び使用されるのではないかと恐れています」

 

「私たちはロシアやその他の国々によって核兵器が使用されるそれを見ることはありません」

 

「テロリストが核兵器を手に入れようとしている今日は、私たち大勢や主要国のように核兵器使用の結果を慎重に考えているわけではないので、マッチ棒のように取り扱うでしょう。私はそれを恐れています」

 

リンジー・ガーフィールド(ロシアトゥデイ=インタビュアー)

私の最後の質問です。

 

今日、仮に第3次世界大戦が起こったとします。

 

あなたは同じ命令を受けました。

 

もし原爆を投下する命令を受けたら、どんな都市にでも原爆を投下すると命令されたら、もう一度やりますか。

 

セオドア・ヴァン・カーク(エノラ・ゲイ航法士)

すべてが正確に同じ状況だったのならば。

 

それがポイントです。

 

実際に物事を正確に複製することは不可能であることは分かっていますが、同じ状況が再び存在する場合は、正確に1945年の状況に戻るならば。

 

私は実際のこととして軍に志願します。

 

私はそれに行きたいと思う。

 

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