ヴァザーリの回廊 フィレンツェは美しい

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君主の回廊

ヴァザーリの回廊とは、シニョリーア広場のヴェッキオ宮殿とアルノ川を越えた対岸にあるピッティ宮殿をつなぐ、「渡り廊下」のことです。

 

全長約1キロメートル、1565年の建設から約450年の歳月を経た歴史のある回廊です。

 

1565年にメディチ家の当主であったコジモ1世が、画家で建築家でもあったジョルジョ・ヴァザーリに造らせた秘密の回廊です。

 

メディチ家の当主で初代トスカーナ大公のコジモ1世は、現在のフィレンツェの景観を整備しました。

 

ウフィツィ美術館やヴァザーリの回廊もコジモ1世の都市計画事業として建設されたものです。

 

ヴァザーリの回廊のあるフィレンツェは1434年から1737年まで実質的にメディチ家により支配されていました。

 

一時期はメディチ族から教皇を輩出するほどの勢力を誇りました。

 

コジモ1世の自宅であったピッティ宮殿からヴェッキオ橋の上部を通り、ウフィツィ美術館(当時はメディチ家が支配するフィレンツェ公国の各行政機関が入居する合同庁舎)、執務を行っていたヴェッキオ宮殿までを繋ぐ約1kmの秘密の通路です。

 

この回廊は、暴動やクーデターなど、いざというときのためのメディチ家の人々の緊急避難通路でもありました。

 

晩年、スキャンダルをかかえることの多かったコジモ1世が自分の執務の場であるヴェッキオ宮殿と自宅のピッティ宮殿の間行き来するにあたり、町中を歩き襲われる危険を避けるため、という説もあります。

 

メディチ家の住居のピッティ宮殿と、政治の中心であったウフィツィ宮殿の間をメディチ家の人々が、安全に行き来できる役割があったともいわれています。

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ヴァザーリの回廊は、アルノ川にかかる橋、ヴェッキオ橋の店舗の上に造られました。

 

ヴェッキオ橋は、ローマ時代からあったといわれている古い橋です。

 

この橋は、1117年と1333年に洪水で流された後、1345年に再建されました。

 

それ以来、670年以上もの間、当時のままの姿で残っています。

 

1557年の大洪水では、ヴェッキオ橋だけが残り、フィレンツェにあった他の橋は、全部流されてしまいました。

 

ヴェッキオ橋は、アルノ川で最も川幅の狭いところに作られたという橋で約84メートルの長さがあるそうです。

 

コジモ1世は息子、フランチェスコ・デイ・メディチとオーストリア皇女ジョヴァンナ・ダウストリアの結婚のときに、ヴェッキオ宮殿の改装工事と共に、この回廊を造らせました。

 

ヴァザーリ回廊が造られた時、ヴェッキオ橋の上には八百屋や精肉屋、靴屋、居酒屋が並んでいました。

 

橋が作られて約100年後、街中のお肉屋さんが集められました。

 

強い匂いを放つ店舗を一箇所に集め、精肉店にとって橋の上の店舗は、食品の材料の未使用部や腐ったものをそのまま下の川に投げ捨てることができ都合がよかったのです。

 

回廊が開通してから約30年後、メディチ家のフェルディナンド1世は回廊を通るとき、精肉屋からの悪臭、窓から見える、ゴミが投げられて流れていく川の眺めに耐えきれず、ヴェッキオ橋の上の八百屋や肉屋を立ち退かせました。

 

メディチ家のフェルディナンド1世は橋の上の店舗はすべて宝石店にしました。

 

ヴェッキオ橋の上に宝石店を集めることで金の取引や価格をコントロールする目的もあったようです。

 

現在もヴェッキオ橋の上は宝石店が軒を連ねています。

 

ヴァザーリの回廊内には、700点に上る絵画が展示されています。

 

ダ・ヴィンチやティツィアーノらの肖像画が展示されているこの回廊からは、アルノ川、フィレンツェの街並みを見ることができます。

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ヴァザーリの回廊の中の礼拝室

ヴァザーリの回廊の途中には礼拝室があります。

 

ヴァザーリの回廊はヴェッキオ橋を渡りサンタ・フェリチタ教会の前を通ってピッティ宮殿へとつながっています。

 

教会の前を通るとき、お祈りをしないのは良くないと、教会に面する所に礼拝室をもうけたようです。

 

回廊の礼拝室からはサンタ・フェリチタ教会を臨むことができ、メディチ家の人々は、一般の人とは別にこの専用の礼拝室からミサをうけることができたそうです。

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ヴァザーリの回廊とムッソリーニとヒトラー

1938年5月9日にアドルフ・ヒットラーはフィレンツェを訪れました。

 

ヘス、ゲッベルス、ヒムラー、リッベントロップを含むヒトラー一行の列車での到着時間は午後2時頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅16番プラットフォームでした。

 

アドルフ・ヒトラーの1938年5月3日からのイタリア訪問ではすでにローマ、ナポリを訪れ、最後の訪問都市でした。

 

このときアドルフ・ヒトラーはムッソリーニ率いるイタリアと軍事同盟を結ぶことを望んでいました。

 

ムッソリーニはローマ、ナポリにおいて、イタリアの軍事力がドイツのパートナーに値するものであるとアピールしました。

 

ヒトラーはミケランジェロ広場へ行き、ボーボリ庭園、ウフィツィ美術館、ヴェッキオ宮殿、ヴァザーリ回廊、ピッティ宮殿へ向かいました。

 

ヒトラーはウフィツィ美術館では約4時間を過ごしています。

 

熱心に絵画を見つめるヒトラーに比べてムッソリーニはそれほど興味を示さなかったとも伝えられています。

 

フィレンツェへの招待は、別の意味があり、イタリアの文化・芸術遺産をアピールすることでした。

 

ヴァザーリの回廊のヴェッキオ橋真ん中あたりにムッソリーニの命令で窓を大きく改築した部分があります。

 

これにはアドルフ・ヒトラーに美しい風景を見てもらうためであったとの説があります。

 

第二次世界大戦中の1944年、連合軍がイタリアに上陸したとき、ドイツ軍は、連合軍の侵攻を妨げるため、アルノ線という防衛線を引いていたアルノ川でヴェッキオ橋を除くすべてのフィレンツェの橋を爆破して落としました。

 

ヴェッキオ橋だけ爆破を免れましたのはかつてここを訪れたアドルフ・ヒトラーの命令によるものと言われています。

 

しかし、実際は1940年から1944年まで在フィレンツェドイツ領事であったゲルハルト・ヴォルフ(Gerhard Wolf) の尽力によるものでした。

 

ゲルハルト・ヴォルフ(Gerhard Wolf) はフィレンツェの多くのユダヤ人をホロコーストから救いました。

 

その中には、美術史家のバーナード・ベレンソン(Bernard Berenson)などもいました。

 

ヴェッキオ橋の両側の道に面した建物は爆破されました。

 

橋による交通は不可能となり市街戦が展開されるなか、パルチザン達はヴァザーリの回廊をたびたび使いました。

 

イタリア半島を北上してきた連合軍は、1944年8月11日にトスカーナのフィレンツェを解放しました。

 

最後に、ヴァザーリの回廊の一般公開についてですが、予約必須で個人での入場は難しいので、ツアーの参加がお手軽です。

 

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